sa Sound Arts vol.2

高橋悠治トーク

ジーベックでのイベント、トーク、インタビュー。 これまで紹介できなかったもの、誌上初公開のものを含めトークセッションそのままに お届けしていきます。 '94年にはジーベックで“楽器の身体”というトーク・コンサートで新しい音 楽創造の方法論を展開した高橋悠治氏。この記事は、'92年に行われたトーク の模様を誌上採録したもので、高橋氏の三味線の師である高田和子氏が聞き手 をつとめています。
 『音色音楽』(前編) 聞きて:高田和子
高橋悠治(作曲家)
高田和子(三味線)
高橋(以下T):“音色の音楽”ということだけど、音色という言葉はあ んまりよくないと思うんですね。自分で題決めといてあれだけど。やっぱり音 色っていうと、オーケストラの楽器の音色とかそういうことを思うわけでしょ。 だけど、音色という言葉で言おうとしていることはちょっと違うことなんだけ ど。色っていう言葉ありますね。三味線の場合は使います?色。何ていう意味 ですか。その場合。
高田(以下K):んー、音のニュアンスみたいなものを表す時に。
T:ああ。色っていうのは、例えば声明の場合も使うかな。うたいの場 合は使いますね。色っていうと、なんか、ちょっと違うふうに、その、なんだ ろ、その仮名を歌うというのかな、いうようなこともあれだし、西洋風にいう なら装飾音が付いているというふうなことがあるし。だから、まあ色というふ うに、音色じゃなくて色っていうふうに言っておくと、この場合は何を言おう としているのかというと、ピッチの音楽というのがあって、これは西洋音楽は まあそうな訳で、アジアでもインドから西は全部そうな訳で。音の高さを数で 表せる訳でしょ。数の関係になる。だから、例えば1対2になればオクターブに なるとか、まあそういう具合ですね。だからインドもそうだしギリシャもそう だし、アラブもペルシャもそうですし、そして西洋にそれが入ったのはかなり 後だけれども、西洋音楽は典型的にそうなってしまったから、そういうものに 対して、色というのは何か、というと、それを説明する前に、ピッチとは何か ということをもうちょっと言ったほうがいいのかな。ピッチは数の関係である と。数の関係ってことは、まあその、いろんなことがいえるんだけど、たとえ ば数は1・2・3・4・5とかいう具合に単位で計れる訳でしょ。それから、まぁ 同じ質のものじゃないと1とか2とかいっても意味がないわけだから、だからあ の、均等になっていく傾向があると。それからその、ある一つのものの性質で もって全部を言おうとする。音の全部をピッチと言うもので代表させようとす る。だから純粋性があるし、抽象的になっていく。それから何と言っても紙に 書けるわけですね、ピッチというのは。それで書かれたものというのは古くな る訳で、だから、歴史的になる訳で、するとある時代のものになる訳。だから、 次の時代は違うことをしなければならないと言うか、まあ紙に書けば、書いた ということで覚えたことになる訳だから、覚えたというか、記憶の代わりにな る訳だから、やっぱり忘れていく、ということかな。だから音楽がそういう風 になったという場合は、例えば1000年前の音楽と今の音楽が違ってくるのは当 然になってくる。1回書いてしまえばその時代で終ってしまうっていうかね。 例えばモーツァルトの音楽は今の音楽じゃないっていうようにね。だけど例え ば紙に書かない音楽と言うのは、いつも今のものなんですね。それは紙に書い てないで今やっているということは今の音楽な訳で、今やってなければ誰もや れない訳だから、そもそも。それで、まぁそういう音楽が何に基づいているか ということを考える時に、色、というような言葉を使ってみる、というような ことなんですがね。それで、それは何に基づいてそういうことが言えるかとい うと、東アジアと東南アジアかな、でずっとあったようないろんな伝統の全部 を見ながら、音楽の全然別な原理を考えるということでね。それは、アジアに いるからアジアの音楽をしなけりゃいけない、とかそういうこととはちょっと 違うんですね。日本にいるから日本の音楽をしなけりゃいけない、とかいうこ ととはね。それで、アジアの伝統というのはまだどこでも生きているわけで、 そういうことっていうのは非常に珍しいんですね。アフリカの伝統っていうの はそれほど生きてはいないと思うけど。今アフリカ音楽といっているものが、 ヨーロッパが入ってくる前にあったアフリカ音楽と同じかどうかっていうのは なかなか難しいことでしょ。それから、例えばメキシコにスペインが入る前に どういう音楽があったかっていうようなことはね、今から推測するのは非常に 難しい、というように、やっぱりこう、破壊された伝統というものがあるわけ で、アジアの場合っていうのはまだそれが生きているというようなことで、じ ゃあ、そこには何があるのか、という、うん、それから、何が作れるのかって いうようなことよね。それでまぁ、今色といっているのは、音色というような ことよりもね、時間に印をつけるというようなことを色と言うわけですね。で、 じゃあピッチは数になる、数って言うのは紙に書ける、というふうにそれから 均等な、画一的なものにどんどんなっていく、抽象的になっていく、っていう ことは段々こう空間的になっていく。ところでその、色というものを考えて、 いろんな音がしている。それはね、質がそれぞれ違うものが同時にあるってい うことを指すわけね。だから、一つでは色っていうことは成り立たない。必ず ある、こう、違いがあるということから始まると。それで、色というものをど ういう風に表すかというとね、例えば三味線がありますね。響く音と響かない 音というふうに言うことも出来るし、えー、音を出してみます?

*三味線の音が入る

T:えー、それでね、先ず一の糸を弾くでしょ?

*三味線の音が入る

K:この、ビーンと響いているのが聞こえます?

*三味線の音が入る

T:これが響く音だとすると、えー、響かない音っていうのがある。ちょっ と一つやってみてください。

*三味線の音が入る

T:こういうのは、こう、どっか止まるわけでしょ。だからそういう対 立っていうのもあるわけですよ。それからね、例えばあの、ゴングなんかの場 合だと、えーっと、ポーンという風にまとまる音と、それから縁の方を叩くと ジャンという風に、こう何というかな、拡散する音の違いがあるわけ。という 風なこともあるし、まあいろいろですが、それをね、どういうふうに表すかっ ていうと、これは紙に書くわけにはいかないことなのよね。なかなかその、こ のピッチはこれで、あのピッチは、という風に書いてもそこに色の違いってい うのはででこないから、例えば、口でそれをいう場合に、えーっとね、例えば なんだっけ、口三味線。それで、チンっていうのとリンっていうのとは違うで しょ。

*三味線の音が入る

K:これがチン、これがリン。
T:
今はじいたわけよね。それで、リンといっても、すくうのもリンという。

*三味線の音が入る

T:だけどまぁ、ともかく、チンとリンがどう違うかっていうの、これ はピッチのちがいじゃあないんですね。それで、まぁそれを口で言うっていう のはいろんなところにあるわけで、例えばあの、インドのタブラ叩くときに、 こう、なんか、太鼓言葉みたいなのがあるんですよね。ソルカットゥっていっ てるんだけど、ディンとティンとなんとかっていう違いがある。それから、雅 楽もみんな、唱雅っていって、それは歌うわけだからメロディーだと思うんだ けど、そうじゃなくてこれは色、なんですね。同じ指でも違う音がでる。それ はピッチも違うんだけど、まぁ何より色が違うっていうことを言いたいわけね。 それから、その、だから口で言うでしょ。それから手で。手っていうのは、例 えば、勘所っていうのはそうだな、三味線の場合は勘所って言うし、ツボとも 言いますね。ツボって言った方がわかりいいでしょ。例えば、四の勘所ってい うのがあるとする。えーっとこれは三下がりか。じゃあ六の勘所があるとする。

*三味線の音が入る

T:それでそれを人指し指でこう、押えるわけでしょ。それから八にいく。

*三味線の音が入る

T:するとさわりが付いている、というふうにいうわけよね。これは、 その一の糸が共鳴している。それで、まぁ、音程的に言えば、完全5度だから 響く、ということになるんですがね。だけどまぁ、今言いたいのは、見ている と手がツボからツボへ動いていくでしょ。それは人指し指で計っているわけで しょ。
K:そうですね。
T:うん。だから、それを見てやったりするんじゃなくてこう、手の勘 でもって、あるツボからツボへいく。それは例えば針とか灸をやって、触って あるツボを感じると。そういうのと同じことなんですね。だから触覚であるっ ていうことと、それからもう一つは楽器であろうがね、まぁ、もうちょっと抽 象的なこともあるんだけど、全部体と関係しているってことですよ。だから、 口で何か言うっていうことで伝えることもできる。それから、手がどっかのツ ボにおさまる、っていう感じでもって伝わる。そうやって伝えられるものが口 伝というようなものになるわけで、口で言わなくても口伝なんだよね、これは。 それでこれは書かなくても代々代々感じるというもので伝えられていくわけだ から、これはいつも現在なんですね。例えば三味線は100年前には全然違う弾 き方をしていただろうと言ったって、弾く人にとっては、ずっと同じことをや り続けているわけ。だと思うんですがどうですか。
K:そうだと思います。
T:それで、こういうものはね、非常に強いんですね。書かれたものよ りも。っていうのはいくら時代が変ろうとね、時代とともにこう変化しつつ同 じものなんですよ、これは。だから何百年経ったって同じであることが出来る わけ。というのは、時とともに生きているからね、というようなあり方があっ てですね、ピッチというような原理でもって今まで組み立ててきた音楽を、組 み立てる別のやり方を考えるときに、こういうものを参考にするわけですね。 それで、とりあえず伝統というものは存在するわけだし、全く離れたところか ら何かを始めても人に受け継ぐことも出来ないし、伝えることも出来ないとい うようなところから始まってはしょうがないから。伝統の使い方っていうのは そういう入口みたいなもんだと。入口があるからこそ分かって、それから次の 別なことにいけると。そんな意味で、何かを変えようとする場合は、例えば今 までの新日本音楽、とかね、現代邦楽、とかね、あるいは西洋的なもので現代 音楽とかね、そういうものは、いかに新しいものを持ち込むかっていうところ から始まるるわけでしょ。それをやったんでは何も新しくならないという風な 感じがするんですね。それで、今やろうと思っていることは、何か新しいこと を考え付いて、それを未来へ向かって発展させていくというようなことを考え るよりは、過去へ過去へと向かっていく、過去を構築するという風にいえると 思うんですけどね。それは例えば、三味線のいろんな流派があって、その伝統 を守るということじゃないんですね。過去というものがいかにできていくか、 ということを考えつつ、一つのある流派じゃなく、全ての過去の根源に向かう、 というように。(続く)
高橋悠治「薄明の音楽室」('92年5月8〜9日:ジーベックホール)より
9日:高橋悠治トーク「音色の音楽」
  高橋悠治(作曲) 聞き手:高田和子(三味線)

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