ハワイはオアフ島。ワイキキプリンスホテルのプールサイドに1人の男が、ロングチェアーに座り、熱い陽射しを浴びていた。1冊の本を手にしている。私である、心地良い風が暑さを感じさせない。ウーム、決まっているな。ただし、読んでる本を除けばだ。ここで、軽くアガサ・クリスティーかR・ベイカーの「男のコラム」などを読んでいればよかった。私が読んでいたのは、行司ひとすじ50年、式守伊之助さんの『情けの街のふれ太鼓』。
「何の本、よんでるの?」と言う声と同時に知り合いの女性レポーターが近づいて来た。ムム、まずい、いかにも場ちがいの本だ。ハワイが情けの街であるはずがない。聞かれた事に答えないのも大人げない。「これなんだけどね」と見せると、案の定。笑われた。ウルセイ! どこへ行こうと俺は日本人だ。そもそも、このハワイの旅は、大相撲ハワイ場所に強烈なラブコールを送って番組絡みで連れて来てもらった。大好きなお相撲さんと一緒にいられるだけでなく、ハワイに行ける。これを逃す手はない。幕下までの全力士の名前を知っているという触れ込みで押し切った。実際は幕内しか知らないのだが、決まってしまえばこっちのもの。若貴と個人的お話し。小錦のでかい尻。旭道山のゴルフスタイルはただの魚屋のオッサン。元黒姫山の親方の気さくさ。大翔山の赤ちゃんのような笑顔。実に関取連中は無邪気だ。ああ〜自慢したい。若乃花と若翔洋と一緒に写真なんか撮っちゃっているんだから。
いかんいかん、行司さんを忘れては。相撲は行司さんあっての形式美。場ちがいな所で読んで笑われたが、内容は実に真摯で、誰にも笑われる筋のものではない。第26代式守伊之助さんの人生、戦前、戦中、戦後の相撲界の変遷を綴ったものだが、人柄の良さが滲み出る。感謝、感謝で、自分が立行司にまでなれた事を回想する。立行司といえば、関取にたとえたら横綱。木村庄之肋と2人しかいないのだ。相撲界での扱いも王様。もう少し天狗になってもよさそうだが、妻に、親方に、巡業先で感謝する。裏を支える行司の鑑みたいな人だ。縦社会で生きる基本なのだろうが、嫌味がない。芸能界とはえらい違いだ。勝負は負けを見て判断するとは納得させられた。我々ファンは勝者を見ているが、行司さんは負け方を見ている。負けをみて軍配を上げる。弱者をみることで、人間の優しさやら感謝を形作っていくのだろうか。
読み終えて、少年期に町の電気屋さんで見た、栃錦、若乃花戦の興奮を思いだし、それがなぜかすがすがしい記憶に変化している自分に気づいた。それは、伊之肋さんのおかげです。心より感謝します。
( 協力 / 桃園書房・小説CULB '93年9月号掲載)